野菜カフェ“はもる”さんを後にして、農楽母さんと農事通信員の笠井さんは児童養護施設「愛育園」さんへと向かいました。

すでに辺りは暗くなり、郊外の山道を不安を抱えながら車を走らせました。。

目指す愛育園さん、建物が美術館のように美しく、正直驚きました。

玄関から続く廊下は、彫刻家太田良平のギャラリーにもなっていました。

驚いたのはそれだけではありません。

応対に出て下さったスタッフの伊達さんの笑顔が素晴らしく、一気に疲れが吹き飛びました!

伊達さんは、陸上で国体選手にもなったスポーツマンで、もともと子供が好きだったことや福祉大学を卒業されたこともあり、金融機関を経てこの施設へ就職されたそうです。

事務の受付の仕事をするものとして、児童養護施設の暗いイメージを払拭するためにも、訪ねてくるお客様に良い印象を持って頂きたくて、いつも笑顔を心がけていらっしゃるのだそうです。。

園長先生がご不在でしたので、副園長先生の長谷川さんとお話をさせて頂きました。

笠井さんは、長野市内の児童養護施設でもお仕事をされています。

ですので、長谷川さんのお話や愛育園の取り組みについて、勉強になることがたくさんありました。。

長谷川さんは、施設の子供たちを心から想う、穏やかで包容力のある素晴らしい方でした。

「震災で、書物が落ちたりはしましたが、建物の被害はほとんどありませんでした。ただ、度重なる揺れで、小さい子供たちの恐怖はなかなか消えませんでした。 水は一週間止まり、飲食はペットボトルで何とかなりましたが、生活雑排水が足りず、用水を指導員が汲んでトイレなどで使用しました。はじめて物資の流通がなくなる事を体験し、平常時から支援の約束をしておかなければならないと痛感しました。」

「物流再開の目途が立たない中、施設に残されていたお米でおにぎりを作り食べ続けました。でも、岩手や宮城沿岸部の津波による死活問題の被害に比べると、『(被害は)何もないです』と言ったほうがいいくらいです。子どもたちにもこのことを理解させ、力を合わせてもらいました。」

「子どもたちは、精神的ダメージは受けていると思います。初めは気丈に振る舞っていましたが、1カ月、2カ月と過ぎたころから生活に覇気が無くなって来たようでした。ボルテージが下がり、ショックを思い出してはボーっとしている子が見受けられました。」

原発事故については、

「事故後、自分は年だから構わないが、30代の職員も作業のために外で被曝させてしまった。振り返ると、あの時、何で本当のことを言ってくれなかったのか、と思います。」

「原発の恐ろしさは、子どもたちにはまだ良く理解されていません。。目に見えない、味も臭いもない、だから怖いんだよ、と話をしています。」

「(除染について)ゴミを撒き散らしたら、拾うのが当たり前でしょう。国や東電は、『検討します』と言うのではなく真っ先にやってもらいたい」

施設とその周辺の除染については、幼児棟とグラウンドの除染は終わったそうですが、それ以外は手がつけられていないそうです。。

施設内には、40μ㏜を超える危険地点もあり、立入り禁止にされています。

愛育園では、細かに危険ポイントと立入り禁止ポイントが書き込まれた放射能汚染マップも作られていました。

「放射能による健康被害は、火傷のようにすぐ症状は出ないが、いつ出てくるのかわからないのだから、早く建物の除染や周辺の表土の除染を進めてほしいです。将来の健康被害を思うと、涙も枯れる恐ろしさです。私たちは、施設の子どもたちの健康を維持していかなくてはならないのです。」

他にも、ここには書くことの出来ないお話がいくつもありました。

お話の途中で、施設の子供たちの夕飯をご馳走してくださいました。

そして、「来年の夏に、施設の子供たちを農楽里ファームさんへお連れしたくなりました」とおっしゃって頂けたこと、とても嬉しかったです。

さらに帰り際、、「長野までの道中にどうぞ・・」、と鯛焼きのお土産まで持たせて下さいました。

しかも、そのうち2個は「車の中でどうぞ。僕の胸で温めました!」という伊達さんのジョークを乗せて、電子レンジで温めた鯛焼きだったのです!

農楽母さんと笠井さん、このお心遣いの温かさに触れ、逆に励まされたように思います。

とても辛い経験をされていらっしゃる中でのこの温かさ・・・

来年以降も何かの形で愛育園さんとの交流も続けて行けたら、と思う農楽母さんでした。。

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